経営者のための労務リスク対策レポート 第6回:労務紛争の最前線:最新データが示すメンタルヘルス・ハラスメントのリスク
かつて労務紛争の中心は、賃金や労働時間といった定量的な問題でした。しかし、現代の企業が直面するリスクの震源地は、より複雑で目に見えにくい領域、すなわち従業員の心理的・関係性の問題へと劇的にシフトしています。この変化を正確に把握するためには、厚生労働省が公表する2つの重要な年次報告書、「過労死等の労災補償状況」と「個別労働紛争解決制度の施行状況」を深く読み解く必要があります。本稿では、これらの最新データから、現代の労務リスクの本質を解き明かし、経営者が取るべき戦略的な対策を提示します。
深掘り分析1:職場のメンタルヘルス危機(過労死等労災補償状況の分析)
厚生労働省が発表した令和6年度の「過労死等の労災補償状況」は、企業にとって看過できない警告を発しています。精神障害に関する労災請求件数は3,780件、支給決定件数(労災認定件数)は1,055件に達し、いずれも過去最多を記録しました。特に支給決定件数は6年連続で最多を更新し、初めて1,000件の大台を超えた事実は、この問題が構造的かつ深刻化していることを示しています。
この傾向を業種別に見ると、リスクの所在がより鮮明になります。請求件数・支給決定件数ともに最多だったのは「医療、福祉」(請求983件、認定270件)であり、次いで「製造業」(請求583件、認定161件)、「卸売業、小売業」(請求545件、認定120件)と続きます。特に「医療、福祉」の中でも「社会保険・社会福祉・介護事業」が突出しており、対人サービスの最前線で働く従業員がいかに大きな心理的負荷を抱えているかが浮き彫りになっています。
さらに重要なのは、これらの精神障害を引き起こした具体的な出来事(要因)です。支給が決定された事案の上位3つは、1位「上司等から、身体的攻撃、精神的攻撃等のパワーハラスメントを受けた」(224件)、2位「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった」(119件)、3位「顧客や取引先、施設利用者等から(著しい)迷惑行為を受けた(カスタマーハラスメント)」(108件)でした。
このデータが示す本質は、現代の最大の労務リスクが、もはや「どれだけ長く働いたか」ではなく、「働く中でどのように扱われたか」という点にあるということです。長時間労働も依然として問題ですが、労災認定に至る直接的な引き金のトップがハラスメントや組織変更に伴うストレスであるという事実は、問題の根源が勤怠管理だけでなく、マネジメントの質と社内コミュニケーションの不全にあることを物語っています。「医療、福祉」業界が最多であることは、感情労働の負荷が高い職場が、心理的リスクの先行指標となっていることを示唆します。さらに、カスタマーハラスメントが上位にランクインしたことは、企業の安全配慮義務が社内だけでなく、外部からの脅威に従業員を保護する領域にまで拡大したことを意味し、特にサービス業にとっては重大な経営課題となります。これは単なるポリシー策定(例:ハラスメント防止規定の設置)だけでは解決できない、オペレーションと企業文化に根差したリスクなのです。
深掘り分析2:現代の紛争解剖学(個別労働紛争解決制度の施行状況の分析)
もう一方の「個別労働紛争解決制度の施行状況」も、同様の傾向を裏付けています。全国の労働局等に寄せられる「総合労働相談件数」は5年連続で120万件を超え、高止まりを続けています。
この中で、民事上の個別労働紛争の相談内容として13年連続でトップを維持しているのが「いじめ・嫌がらせ」であり、その件数は54,987件に上ります。この事実は、ハラスメントが職場に蔓延する慢性的な病であることを改めて示しています。
一方で、今年度のデータで注目すべき新たな傾向は、「労働条件の引下げ」に関する紛争の急増です。相談、助言・指導の申出、あっせん申請の全ての項目で前年度から増加しており、特に助言・指導の申出では最多となりました。他方で、最終的な紛争解決手段である「あっせん」の申請理由では、「解雇」が依然として最多となっています。
この二つのデータは、現代の労務紛争の力学を明らかにしています。ハラスメントが慢性的な問題として存在する一方で、経済的圧力や事業再編を背景とした一方的な労働条件の変更が、従業員にとって新たな、そして急性の「痛み」となっているのです。ハラスメントは「相談」のトップであり、従業員が継続的な問題に対して助言を求める段階を示唆しています。しかし、自らの職や給与といった根幹的な労働条件が脅かされたとき、彼らは「あっせん」という、より公式で最終的な手段に訴え出る傾向があると考えられます。つまり、企業が経済的プレッシャーに対応するために賃金や役割の変更を行う際、従業員の真の同意を得るプロセスや十分な説明を怠った結果、深刻な紛争へと発展しているのです。経営者は、職場環境の健全化という継続的な戦いと、組織変更の公正性をめぐる新たな戦いという、二正面作戦を強いられていると言えるでしょう。
これらのデータ分析から導き出されるのは、旧来の労務管理手法の限界です。経営者は以下の3つの戦略的転換を断行する必要があります。
- プロアクティブなメンタルヘルス対策への転換:問題発生後の対応から、予防的管理へと舵を切るべきです。定期的なストレスチェックの実施、管理職に対する部下の不調の兆候を早期発見するための研修、そしてカスタマーハラスメントに遭遇した従業員を保護するための明確な社内プロトコルの整備が急務です。
- リスク管理としてのチェンジマネジメント:賃金、役割、勤務地など、労働条件のいかなる変更も、法務上の高リスク事案として取り扱うべきです。トップダウンの通告ではなく、透明性の高いコミュニケーション、明確な経営上の合理性の説明、そして一方的な通告ではなく対話のプロセスを組み込むことが不可欠です。
- 管理職の「ソフトスキル」への投資:データは、直属の上司、すなわちラインマネージャーの質が、職場の心理的安全性を左右する最大の決定要因であることを証明しています。管理職に対し、コミュニケーション、コンフリクト解決、共感力といったスキルを向上させるための研修に投資することは、もはや福利厚生ではなく、中核的なリスク軽減戦略なのです。